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『足りない二人』札幌上映

自主制作映画『足りない二人』は2017年に完成していたが、劇場公開が出来なかった。そこでクラウドハンディングで劇場上映の資金集めが取り組まれた。

2年経って、ようやく札幌で劇場上映にこぎ着けた。1回限りの上映だったが、驚くような作品だった。以下、その感想を記す。

008.JPG(左から)山口遥、地元エキストラの三ツ山病院医師と中華食堂龍鳳店主、佐藤秋(4月8日 札幌シネマフロンティアで。映画上映後の舞台挨拶)

 

 クラウドファンディングでプレミア上映!

 東京に続き札幌でも。映画『足りない二人』を観る。

 佐藤秋・山口遥 監督・脚本・主演『足りない二人』(日本映画 二〇一七年)が、四月八日(月)札幌シネマフロンティアでプレミアム上映された。新宿ピカデリーに続いて二館目の劇場上映である。劇場上映実現のためにクラウドファンディング(ネット上に自分の企画を公開して賛同者から資金を募ること)を呼び掛けていて、ボクも些少ながらカンパした。北海道を舞台にした映画である、二年経ってやっと札幌上映となって観ることが出来た。

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 『足りない二人』は、三〇代の俳優である佐藤秋と山口遥が、自分たちが作りたい映画を作るんだ、という思いで共同で脚本を書き、主演し、監督した自主製作映画・インディーズ映画である。ただ、特に異端の映画を作ろうとかアウトサイダーの立ち位置で社会批判を試みるというようなイデオロギー的な意思があるわけではない。映画の内容が商業映画の企画では採用されないということがあったのだろう。寧ろ、商業映画と肩を並べて劇場上映したいという思いは強く、それはクラウドファンディングの試みにもあらわれている。

 札幌上映では、佐藤秋と山口遥の舞台挨拶に地元エキストラの二人も参加、ネットやブログ、SNS、口コミでこの映画を広めてほしいと訴えた。

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 小山内宏太(佐藤秋)と中西楓子(山口遥)は、同棲している恋人であり共同で作業している売れない漫画家たちである。都会で行き詰って祖父母の空き家だった北海道積丹の一軒家で暮らしながら漫画を描き続けているが、実態は時間の多くをバイトで生活費を稼ぐ日々である。実家に帰れば、介護し・されながら老いていく親たちの厳しい現実があり、他方で持ち込んだ企画は却下され、過っての知り合い漫画家たちが売れていくのを横目で見ながら、日々の生活に疲れ、二人で居ることの苛立ちで口論になる、「二人でいるから上手くいかない事が多いと思う」「お互いに足の引っ張り合いをしているのかな。」

 売れない漫画家や俳優や歌手、下積みの芸人の、ある意味ではありきたりの話である。行き詰まり方やすれ違い方も既視感がある。

 ところが、である。際立った凄さが、この映画にはある。

 それは、「会話」・「対話」である。現代日本社会は、一人で居ようが二人で居ようが多人数であろうが、そこにあるのは「モノローグ(ひとりごと)」であって「ダイアローグ」がない、と特徴づけられるだろう。「他者(他人)」がいないのである。喫茶店に入ろうが、電車に乗ろうが、一〇人中七人までが俯いてスマホをいじっている光景は珍しくない。何かに繋がろうとしているのだろうが、モノローグでどのような繋がりが出来るのだろうか。

 そうした光景に抗うように、この映画は、驚くべき会話劇なのである。とにかく二人は激することもあるが、よく喋る。よく会話する、それは稀有なことだ。漫画のテーマやスタイル、日々の生活費、親たちや実家の犬のこと、今の生活のこと、時に口論にもなるし無口にもなるが、本当に驚くべきことに、ここには独り言(モノローグ)ではなく会話、お互いに理解出来る対話(ダイアローグ)があるのだ。ここには他者がいる。それがドキュメンタリーのように感じることがあるのは、たとえ商業ベースに乗らなくても自分たちの空気感がある漫画を描きたいという二人の想いや感情が、この映画を手探りで製作している現実の二人と時に重なって見える時があり、会話に普段の調子があるからだろう。

 モノローグはいらないといっているのではない。それどころかモノローグは人を沈思黙考させ蓄積する。それは書き言葉になる。それに対してダイアローグは話し言葉だ。この映画の中で、よく喋り一方通行にならないのは、二人がちゃんと話し言葉で喋っているからだ。どちらかに偏っている人間は今溢れている。現代の病理といってもいい。

先日亡くなった作家橋本治は、ダイアローグだけの人間について、《言葉というものを「他人との関係をつなぐもの」とだけ思っているから、自分の内部にモノローグが蓄積しないのです。・・・他人との接点でだけ言葉は生まれて、その条件反射的な言葉以外には、言葉というものが発せられない》と批判し、対してモノローグだけの人間は、《他人と意志の疎通を交わすためのダイアローグの言葉を持っていないから、「人に対して話す」が出来にくくなるのです》と指摘している。(『橋本治が大辞林を使う』三省堂)

某医療大学歯学部で模擬患者ボランティアを募集して実習している様子を見学して驚いたことがある。歯学部学生たちは、歯科医師となるための技術や知識は叩き込まれるが、患者の様態・患部の聞き取りが出来ない!ダイアローグの言葉を持っていないのである。こんなことを訓練しなければならない時代なのか。

現代日本社会のなかに、この映画を置いてみると会話劇映画として際立った異色作なのである。売れない漫画家たちの「何も起こらない日々」という感想が多いけれど、そうした感想の多くは勘違いしている。映画や文学の内容が、冒険だったり活劇だったり波乱万丈であれば、何かが起こった日々であり行動的なのではない。スクリーンや紙の上で行動的であることは、観客や読者を活動的にするものではない、という当たり前のことが分かっていない。では映画や文学の役割は何か。それは、観客や読み手の想像力を喚起させる映像の仕掛けであり言葉の仕掛けなのである。この場合、想像力とは、すでにあるイメージのことではなく、固定した・基本イメージを歪形し解き放つ力のことである。「何も起こらない日々」だから詰らないのではなく、想像力を喚起させなければ詰らないのである。この驚くべき会話劇にあなたは想像力を喚起されなかったのですか?と云いたい。

 映画は冒頭で足に持病を抱える小山内と楓子が、雪に埋もれた街をトボトボ歩いてくる陰気なシーンから始まる。しかも今描いているらしい漫画の登場人物たちを別れさせた方がいいとか私たちも別れた方がいいのかな、などとどん詰まりな会話をしながらだから、観ていて憂鬱になる。ところが、映画はラストシーンで再び冒頭のシーンに帰ってくる。ヨーロッパの映画で、同じような手法を使って揺らぐような感動があった映画があったけれど今作品名を思い出せない。『足りない二人』でもこの手法は実に効果的だった。

描きたい漫画の形も二人の関係も行き詰っていたなかで、会話し続けているところだけが一縷の望みのようなもので、好転の兆しが見えなかった。ところがラスト近くで、パーラーに入ってお茶を飲むシーンがあり、近くに座った歌手だという年配女性を見て咄嗟に楓子はナプキンに似顔絵を描き始める。それに小山内が手を入れるというシーン。そこには微かに明るいものが動いているのである。描くのが好き、楽しいという明るさ。それが伏線となって、冒頭シーンが回帰する映画のラストシーンへ。すると冒頭で見た陰気臭さが薄れて、映像に微風が流れてきていることに気が付く。確かに冬の北国だから冷たい。しかし、それは陰気臭さを流す。奇跡的なシーンである。この二人は映像の創り方も上手いのである。端倪すべからぬ才能だ。『足りない二人』は、紛れもなく映画の文体を持っている秀作である。(清水 三喜雄)

  2019/04/13   清水

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